インタビュー
写真・永田忠彦 文・渋谷ヤスヒト
Photographs by Tadahiko Nagata
Text by Yasuhito Shibuya
自分や家族が罹っていたらどうしようと、だれもが不安になり、心配する病気、それがガンだ。
悪性新生物とも呼ばれるこの病気は、男女を問わず日本の死亡原因の第1位。厚生労働省の人口動態統計によれば、2019年は27.3パーセント、つまり約3人に1人がガンで亡くなっている。不安になるのも当然だ。
「親もガンに罹ったし、自分も可能性が高いかも」「何となく身体の調子が良くない。ガンに罹っていたらどうしよう」。このような漠然とした不安をどうすれば解消できるのか?残念ながら、これまではどうしようもなかった。精度が高く、しかも手軽で費用の安い「ガン検査」は存在しなかったからだ。
従来は、会社や地方自治体が年に1回実施する定期検診での5大ガン(胃ガン、肺ガン、大腸ガンという3大ガンと、主に女性が罹る乳ガン、子宮頸ガン)検診頼みだった。しかもこの5大ガンの検査の中には、時間を作って医療機関で受診しなければならないものもある。忙しくて定期検診すら受けられない人にとっては、かなり高いハードルだ。
そのため日本のガン検診の受診率は、男性でも約40〜50パーセント。女性の場合は約30〜40パーセント程度。受診率が約80パーセントのアメリカや、約70パーセントのヨーロッパと比較するとかなり低い。そしてこの受診率の低さが、「ガンが発見された時にはもう助からない」という、日本中で起きている悲劇の原因になってきた。
だが今、「ガン検査」の世界で革命が起きている。それは、ある「小さな生物」が15種類(*)ものガンのリスクを高い精度で教えてくれるHIROTSUバイオサイエンスの「N-NOSE(エヌノーズ)」だ。この検査はとにかく簡単だ。病院に行かなくても、検査キットを購入して、その指示に従って自分の尿を採取して提出するだけ。
具体的には、検査キットの中にある小さな容器に自分の尿を採り、付属の保冷バッグに入れて採取から4時間以内に主要都市にある専用ステーションに持ち込み、専門の集荷配送業者に手渡すだけ。しかも、検査キットの価格はたったの12,500円(税込。集荷配送費別)。検査費用はこの価格に含まれている。
この検査は「一次スクリーニング検査」という名前からわかるように、全身のどこかに「ガンがあるかどうか」のリスクを判定するもの。もし「リスクが高い」と判定された場合は、ガン専門医の診察や本格的なガン検査を受けることが推奨されている。同検査は臨床研究において86.3パーセントという高い感度を誇り、ごく初期のガンでも反応することが確かめられているという。
この画期的な検査「N-NOSE」を開発・実用化したのは、HIROTSUバイオサイエンス代表取締役の広津崇亮(ひろつ・たかあき)氏。意外なことに広津氏は医学の研究者ではなく、理学博士号を持つ生物科学の研究者で、ある「小さな生物」を大学4年生の時から研究してきた。広津氏はこの検査を開発した動機を語る。
「ガンは早期発見であれば、約9割が克服できる病気です。ところがそれがとても難しい。でも私が学生時代から研究してきた「小さな生物」ならば、驚異的な能力でガンの検知・発見に役立つのではないか……。九州大学で教員をしていた時、このひらめきがあり、すぐに研究を開始しました」
ガンはステージが進行するほど病状は深刻になる。だから、できるだけ早期に発見して治療することが大切だ。早期であれば早期であるほど最小限の投薬や手術で、そして最小限の費用で克服できる。身体的、精神的なダメージも少ない。
「ガンの検査は種類ごとに1つひとつ違うため、これまではガンごとに個別の検査を受ける必要がありました。もし全身のガンを調べようとしたら何日も、しかもかなりの費用がかかってしまうのです」
ではその「小さな生物」とは何だろうか?
「その生物は『線虫』です。線虫というと、よく知られているのは激しい腹痛を起こすアニサキスや人間の消化器系に寄生する回虫などで、あまり良いイメージはありませんが、土や海の中には多種多様な線虫が生息していて、生態系の中で大きな役割を果たしています。
N-NOSEに使用する線虫は「シー・エレガンス」という種類で、生物科学の基礎研究の世界では研究対象、モデル生物としてもっともポピュラーなもの。ノーベル賞クラスの研究も数多く、すでに6人がこの線虫を使った研究でノーベル賞を受賞しています。
大学生の頃、アメリカから帰国したばかりの教授から『これからの基礎研究は線虫の時代だ。誰か線虫を使って研究をしてみないか?』と言われて、真っ先に手を挙げました。日本では、私はたぶん線虫を研究対象にしたかなり初めの方だと思います」。
これが広津氏と線虫「シー・エレガンス」との、現在まで続く長い付き合いの始まりだった。
線虫は昆虫以上に種類が多く、一説には1億種以上で、この地球上で最も種類の多い動物だといわれる。
「『N-NOSE』は、体長わずか1ミリほどの線虫「シー・エレガンス」の驚異的な嗅覚を利用するもの。医学の研究者ならば線虫の嗅覚を利用するというアイデアは絶対に出てこなかったでしょう。この検査を私が発明できたのは、生物科学の研究者、しかも線虫の研究者だったからです」
線虫は広津氏の運命を変えた。東京大学大学院で線虫の神経系の研究を行っていた2000年、線虫の匂いに対する嗜好性を分析した論文がイギリスの科学誌『ネイチャー』に掲載され、その後は理学博士号も取得した。そして、九州大学大学院理学研究院の教員時代に、この線虫の嗅覚を世の中のために役立てたらどうかと考えたという。
「優れた嗅覚で知られる犬の約1.5倍の嗅覚受容体を線虫は持っています。これは線虫の研究者なら誰もが知っていること。ところが、この嗅覚を人の健康のために役立てようとは誰も考えていなかったのです。あくまで基礎研究の対象だという思い込みがあったからでしょうね。基礎研究の研究者とはそういうものなのです」
そんな折、広津氏はガンの発見に犬の嗅覚を使う研究の存在を知る。
「線虫ならば犬を使うよりも優れた検査ができるのでは?と考えました。線虫は犬のように飼育の手間や餌代もかからないからです」
尿の中に出てくるガンの関連物質の濃度はごく微量であると考え、まず尿をそのまま使った。ところが、嗅覚が鋭敏な線虫にとっては、そのままの尿では関連物質が濃すぎたのだという。広津氏は、尿を薄めることで、線虫が尿の中の関連物質に特異的な反応を示すことを突き止めた。
こうした経緯を経て2015年3月、広津氏は九州大学で「線虫が尿によって高精度にガンの有無を識別できる」という研究成果を発表。これはアメリカのオンライン科学誌『PLOS ONE』に掲載され、画期的な発明として世界的に注目されることになる。
その後、広津氏は研究者の立場を超えて大きな一歩を踏み出した。発明したこの画期的なガン検査を実用化するために、2016年に「HIROTSUバイオサイエンス」を設立。代表取締役に就任し、経営者として活動を開始したのだ。
「大学の素晴らしい研究成果が実用化されることなく埋もれてしまう例をたくさん見てきました。この発明を埋もれたままのものにしたくない。何としてでも実用化して、1人でも多くの人をガンから救いたい……」
自ら起業して実用化に挑んだのは、検査の費用をできるだけ安くしたいという思いからでもあった。「企業の力を借りて実用化できても、検査自体が高価なものになってしまったら意味がありません。誰もが気軽に受けられるものにしたい。そのためにも、誰かがやってくれるのを待つのではなく、自分自身で実用化しなければと考えました」。
そして2020年1月の実用化を目指して研究開発に取り組んだ広津氏。検査工程の機械化を進めながら、全国の大学や医療機関を走り回って臨床現場での共同研究を開始。そして目標どおり、これまでにない生物の能力を活かした新しいガン検査「N-NOSE」を完成させ、まずは医療機関で、さらに2020年10月には一般で発売をスタートした。
全部で15種類ものガンのリスクを、最初期のステージ0からステージⅠでも高精度で判定できる「N-NOSE」。ガン検査・治療の先進国アメリカを皮切りに、世界での事業展開も始まろうとしている。この検査を利用する環境が整えば、世界中でガンの早期発見・早期治療が進み、突然に余命宣告される人が激減するはずだ。
広津氏は現在、さらに多くの人を救うことになる新たな研究開発に取り組んでいる。それは、一次スクリーニングからさらに一歩進んだ、特定のガンの有無を尿から判定できるようにすること。
「今、取り組んでいる研究開発が成功すれば、尿だけで特定のガンの有無が判定できるようになります。そうすれば、医療現場での活用をさらに進めることができます」
線虫の力でガンの脅威から人々を救う。広津氏の「夢」はまだ始まったばかりだ。
広津氏プロフィール
HIROTSUバイオサイエンス
代表取締役
広津崇亮
Takaaki HIROTSU
1995年東京大学理学部生物学科卒業。2001年東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻博士課程修了。博士(理学)。線虫の嗅覚に関する研究で世界的に知られる存在だ。
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