インタビュー

名旅館の女将が目指す
人に愛される時間と空間の提供

写真と文・佐藤良一

Photographs & Text by Ryoichi SATO

「石苔亭いしだ」の女将、石田貴子さん。

日本の美意識を具現化した雅な世界に
「人こそ宝」という理念をプラスする

能舞台「紫宸殿(ししんでん)」。狂言や舞踏の宴をはじめ、夏には「七夕風鈴」、春には「二千体雛飾り」で目を楽しませてくれる。画像提供:石苔亭いしだ

「ここのお湯は肌に馴染むとろとろの美肌の湯。お勧めですよ。それに昼神温泉は土地に力があるというか、空気の透明度がとても高いです」。そう語るのは「石苔亭(せきたいてい)いしだ」の女将、石田貴子さんだ。昼神温泉郷がある長野県阿智村は、奈良・平安の時代に東西を結ぶ幹線道路・東山道の要衝として栄えた地。『万葉集』や『古今和歌集』にも登場し、1800年にもおよぶ歴史の層が今もなお息づいている。そうした背景を旅館の空間に丁寧に映し出し、未来へと伝えていきたい──そんな想いから「石苔亭いしだ」は誕生した。純和風の木造平屋建て、ロビーに構える総檜造りの能舞台、館内に飾られた十二単の人形や能面など、随所に日本の美意識が息づく。しかし、それらがけっして堅苦しくなく、むしろ穏やかで心和む空気感を生み出している。それがこの旅館の魅力。格式と温もりが絶妙に溶け合い、訪れるゲストを優しく包み込むようだ。

地元の天然石をふんだんに使った内風呂と露天風呂は温もりと癒しを与えてくれる。

長野県飯田市で4人兄弟の末っ子として育った石田さん。石田さんが生まれた時、当時、岐阜県中津川市から飯田市へとつながる鉄道施設の工事に伴い、現在の昼神温泉の地で試掘が行われていた。その最中、突如として温泉が湧き出したのだという。「この出来事をきっかけに、私の父は南信州に温泉郷を築こうと決意しました。観光を通じて地域と共に発展する未来を見据え、ひるがみ温泉株式会社を設立し、初代社長に就任。10年後には、『石苔亭いしだ』の前身となる『ホテルいしだ』を創業しました」。その旅館を切り盛りする初代女将となったのが石田さんの母だった。「専業主婦だった母は、本当に大変だったと思います」。そんな母の背中を見つめながら育った石田さん。世間一般的には恵まれた環境の中で過ごした一方で、複雑な思いもあったという。「子どもながらに感じていたのは、どこか寂しさのようなものでした。家族と少し距離感があったのかもしれませんね」と語る。そんな石田さんが「石苔亭いしだ」に携わるようになったのが、東京の短大を卒業後、飯田市に戻って来た20歳の時からだという。

「庵梅(いおりのうめ)」と名づけられた107号室。部屋の名はすべて狂言の演目からとられている。

「旅館を継ぐつもりはなく、忙しかった父の面倒をみるために、母に代わり自宅に灯をともそうと実家に戻ったのです。でもある時に突然、母から若女将に任命されてしまいまして……。末っ子として育った境遇もあると思うのですが、何も出来ず、何もわからずでした。そして、一度逃げたんです」と、振り返る。その後、自分はいったい何をしたいのか……。そんな問いを胸に、迷いながら過ごす時間が続いた。そして22歳の時、意を決して出戻ったという。だがその時も女将として「旅館を継ぐ」という覚悟があったわけではなかった。「むしろ"女将として"というより、"家族に認められたい"という思いのほうが強かったと思います」。こうして本格的に旅館の仕事に携わるようになった石田さんは、2013年、代表取締役に就任。今から12年前のことだ。

「地物の食材を大切に、目でも楽しめる料理を」。今春から新料理長となった大川匠料理長は語る。信州懐石の一例「冷やし稚鮎素麺」。

「いしだには建物の力とでもいうのでしょうか、その当時は母の理想としたハードとソフトがなじんでないと気になっていました。どこかかたさがあるというか、高飛車に映ってしまう」。確かに、「石苔亭いしだ」は格式ある純和風の木造平屋建て。初代女将が思い描いた"理想郷"のかたちを、丁寧に反映した佇まいだった。「少し大げさかもしれませんが、平安の雅を宿したような純和風の温泉旅館として、地域のエネルギーとなり、訪れる人々に心の安らぎを届ける宿であり続けたいという願いがあります。けれど、机上の理念をとなえるだけでは意味がない」。そんな思いから始まったのが、女将による"意識改革"だった。その原点には、若かりし頃に感じた自身の疎外感やジレンマがあったという。「まずは、従業員との会話を増やすことから始めました。朝でも昼でも、何か空気が変だなと感じたらすぐに声をかける。時には、さりげないボディタッチで安心感を与えるようにして。そうやって、ひとり一人との距離感を縮めていったんです」。

こうした日々の積み重ねが功を奏し、石田さんの思いが少しずつ"宿の色"として出るようになり、今では"人に愛される時間と空間"を提供する旅館として、新たな姿を確立している。そんな女将にとって、従業員は"友人であり、兄弟、親戚"であり、"第二の家族"でもある。「この宿を彼らにとっての"ベース基地"のような場所にしたいんです。もしやりたいことがあって別の道に進むなら、それもいい。若い人たちがもっと活躍できる地域を、一緒に作っていけたらと思っています」。そして石田さんはこう続ける。「ここまでの道のりは、すべて"人"に支えられてきました。繋がれたご縁も"信用"があってこそだと思います。だからこそ、"人こそ宝"という思いを大切にして、これからも地域の未来に寄り添っていきたいんです」。

その思いが、ひとつのかたちとなって花開いたのが、2025年3月。従業員が準備を重ねてきたペットホテル「Paw House」が、旅館から徒歩数分の場所にオープンした。「地域と共に成長し続ける」――その理念のもと、今まさに新たなステージを刻み始めている。

何もしない贅沢な時間を。
「39時間ステイ」のススメ

「時にはゆっくりと読書をする時間を」という思いから、湯上がり処にはさまざまなジャンルの本が並んでいる。

そんな石田さんが提案するのが、「39時間ステイ(マイサンキュープラン/通常お一人様41,800円(税込)〜)」。1日目の夜にチェックイン、2日目はまるまる1日滞在して、3日目のお昼にチェックアウト。要するに、2泊3日のゆったりとした滞在だ。「旅館は"1泊2日が当たり前"みたいになっていますよね。でもそれではすぐに終わってしまう。慌ただしくて、旅館を十分に楽しめないと思うんです」。そう語る口調には、旅館で過ごす時間そのものの価値を再発見してほしい、という想いがにじむ。「自分へのご褒美として、自然と目が覚める朝を迎えていただきたいんです。決められた時間じゃなくて、自分のリズムで。お腹が空いたら食事を楽しみ、気の向くままに散歩に出かけるのもいい。日々の生活の中で知らず知らずに疲れている心と身体をリセットしてもらえたらと思っています」。そこでふっと、女将は少しおどけたように笑う。「たとえば……の話ですが、全身の汗腺を全部パッと開いて、昼神のきれいな空気に入れ替えてほしいんです。まるごと生まれ変わるような気分で過ごしてもらえたらうれしいですね」。

そんなステイスタイルを提案できるのも、「石苔亭いしだ」だからこそ。建物の風格や空間設計といった"ハード"の力に加え、心配りの行き届いた"ソフト"の温かさが、旅人の心と身体にじんわりと染みわたっていく。


Information

石苔亭いしだ

住所:長野県下伊那郡阿智村智里332-3
電話:0265-43-3300
アクセス:JR飯田駅から車で約30分(要予約で無料送迎あり)。
名古屋から車で約2時間。東京・大阪から車で約4時間。
名古屋駅から昼神温泉直行バス(約90分)
チェックイン15:00/チェックアウト11:00
https://www.sekitaitei.com/


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昼神温泉郷の温泉旅館「石苔亭いしだ」"人こそ宝"という思いを大切にする女将へのインタビュー。