銀座より道、まわり道
文・山口正介 イラスト・駿高泰子
Text by Shosuke YAMAGUCHI
Illustration by Yasuco SUDAKA
この日は珍しく、東銀座に足を向けた。かつては映画といえば、しばしば東劇や松竹セントラルで鑑賞したものだ。
いきおい上映前のひとときを近くの喫茶店で過ごすことが多かった。歌舞伎座の裏手に当たるのだろうか、マガジンハウス本社の斜め向かい。最近の銀座としては珍しくなってしまった低層のビルの2階に、喫茶店『樹の花』がある。急峻な階段をのぼって、しっかりしたドアを開けると、馥郁たる珈琲の香りに圧倒されることになるのだった。
思えば、足繁く通ったのは前世紀のこと。この店の開店は1979年だというから創業45年になるだろうか。
『樹の花』といえば、その45年前の開店の数日後にジョン・レノンとオノ・ヨーコが立ち寄った店として知られている。店内には二人の寄せ書きも展示されていた。店の案内掲示板には、息子のショーンが映画を観ている間の時間潰しにふらりと入店したとある。
息子が映画を観ている間にお茶をするとは、なかなか粋なことをするものだが、映画を観終わったショーンとは、ちゃんと会えたのだろうか。退出する映画観客の人の波のなかで、彼は両親を見付けられたのかと余計な心配をしてしまう。
もっとも、相手はジョン・レノンなのだから、人込みのなかでも目立ったことだろう。
そのころ、つまり45年前、ビートルズの一員やオノ・ヨーコが銀座をぶらぶら歩いていても誰も気にしなかったのだろうか。ビートルズぐらいでは驚かないのが銀座の格式というものなのだろう。
銀座といえども、この『樹の花』がある一角は表通りからしてみれば、裏手になり、あまり目立たない。それでも、山小屋風ともいえる内装など、チェーン展開する店とは一線を画するところがある。数多い喫茶店のなかから、この店を選んだというのは、おそらくオノ・ヨーコの炯眼と育ちの良さによるものだろう。さすがにセンスがいいというか、鼻が利くという感じだ。
ということなのだが、久しぶりに訪れてメニューからキーマカレーを頼んだ。これからの映画鑑賞の前に小腹を満たしたいと思ってのことだ。
なんのことはない、久しぶりに東劇ビルにある松竹の試写室に行くのが、この日の僕の予定だった。店内はジョン・レノンにあやかろうとする人たちで満員であるが、さすがは銀座の客、長居をすることなく、珈琲などを楽しんで、さっと引き上げていくところが、なんとも粋である。
僕もカレーをさっさと平らげて店を後にした。
やまぐち しょうすけ
作家、映画評論家。桐朋学園演劇コース卒業。劇団の舞台演出を経て小説、エッセイの分野へ。近著に『父・山口瞳自身/息子が語る家族ヒストリー』(P+D BOOKS 小学館)。
*掲載情報は2024年6月号掲載時点のものです。
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山口正介さんが綴るコラム【銀座より道、まわり道】。「懐かしの喫茶店にて」。