銀座の謎

銀座の象徴が、
時を告げる

文・山口正介 イラスト・駿高泰子

Text by Shosuke YAMAGUCHI

Illustration by Yasuco SUDAKA

ここに不思議な写真がある。キャプションには「昭和初年の銀座4丁目交差点」とある。
写真に映っているのは、当時の絵はがきだ。路面電車が交差点を忙しく横断し、人々が行き交うが、自動車は数えるほどしか描かれていない。
その絵はがきを眺めると、奇妙な感覚にとらわれる。すべてが変わってしまった銀座4丁目の交差点なのだが、1か所だけ、まったく同じ場所があるのだ。

4丁目に威容を誇る時計塔は当時から同じ場所にあったのだ。目まぐるしく新築のビルが建てられる銀座通りにあって、これは一つの謎ではないだろうか。
確かに現在も利用することが多く、日常的に目にしているビルなのだが、こんなに昔から同じ場所に、同じ外観で立っていたのか。

イラスト・駿高泰子

今、資料にあたると、元は朝野新聞の社屋であったという。その朝野新聞が廃刊になったので1894年(明治27年)にこの社屋を購入し、アメリカで建築の勉強をした伊藤為吉が改築して『服部時計店』となったという。伊藤為吉は、日本ではじめてコンクリートを使用した建築家といわれている。その伊藤為吉が設計したという伊藤家の墓は巣鴨にあり、1坪はあろうかという霊廟であるが、コンクリート造りのため、親戚の間では物置のようだといわれているというが、豪奢な鉄扉もあり、なかなかに立派なものだ。

この為吉が設計した時計塔は初代であり、建て直してほぼ現在と同じ姿になったのは1932年(昭和7年)のことで、このときの設計者は渡辺仁である。
僕が驚いた絵はがきは、キャプションに昭和初年とあるが7年以降の姿を描いたものだ。初代が解体されて新築工事が着工したのは1921年(大正10年)とのことだが、1923年(大正12年)の関東大震災のため、工事は遅れることになる。銀座全体を建て直す必要があったのだ。いわゆる銀座復興である。

ということは、着工から完成までにおよそ11年を要したことになる。震災の経験を踏まえて、建物は耐震のため設計の変更もあったようだ。これが現在まで変わらぬ姿をとどめる理由だろうか。戦後の一時期は進駐軍に接収されてPXとして利用されていた。
絵はがきでは、当時、表通りで一番高いビルだった。その屋上に時計塔が備えつけられている。今も定時に鳴るカリオンの音色は銀座の象徴だ。
ちなみに、私事で恐縮だが、初代の時計台を設計した伊藤為吉は、僕の義理の叔父の祖父に当たる。

やまぐち しょうすけ

作家、映画評論家。桐朋学園演劇コース卒業。劇団の舞台演出を経て小説、エッセイの分野へ。近著に『父・山口瞳自身/息子が語る家族ヒストリー』(P+D BOOKS 小学館)。

*掲載情報は2020年10月号掲載時点のものです。

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山口正介さんが綴るコラム【銀座の謎】。「銀座の象徴が、時を告げる」。